東京高等裁判所 昭和37年(ネ)3082号 判決 1964年8月07日
理由
一、控訴人が訴外風間房雄へ宛て昭和三十五年八月二日被控訴人主張の金額五十万円の約束手形一通を振出したこと、訴外加藤浅次郎がこれを満期に支払場所において呈示し、手形金の支払を拒絶されたこと及び被控訴人が右手形の所持人であることはいずれも当事者間に争がない。
二、表面並びに附箋の成立に争がなくこれとその方式及び趣旨並びに原審証人遠井晋の証言とにより裏面の成立を認めうる甲第三号証(本件約束手形)及び右証言によれば前記手形の各裏書及び受戻の事実を認めることができ、右認定を動かすに足る証拠はない。
三、そこで右約束手形の原因関係に関する抗弁について判断する。
(証拠)を総合すれば、控訴人と訴外風間房雄とは、建材業者である控訴人に風間が砂利等を販売納入する等の取引関係にあり、控訴人から風間に対し屡々砂利代金支払等のため約束手形が振出されたことがあつたが、これとは別に控訴人が風間に対し事業資金を融通する方法としていわゆる融通手形を振出し交付したことがあつて、この手形が他に譲渡され、満期に至つて風間はこの手形金を支払決済するに必要な資金を控訴人に支払うことができず、控訴人もまた手持資金がなかつたことから、控訴人は更に新たな約束手形を風間宛に振出交付し、風間にこれを他で割引させて、その対価を控訴会社に取得させこれを以て前手形の決済に当てる方法をとり、更に後の手形の決済についても同様の方法をとり、これをくり返していたこと、本件約束手形も右の決済資金を得る目的で控訴人が風間に他での割引を依頼して何らの対価関係なく振出したものであること、風間は、被控訴人の夫であり被控訴人のため代つて手形取引その他の取引の実行に当つていた訴外遠井晋と友人関係にあり、同人を通じ被控訴人から昭和三十三年六月二十日附で金四十六万円を月賦返済の約で借用するなどして被控訴人に対し債務を負つていたが、風間は右金員借用当時から控訴人及びその他の取引先から交付を受けた手形の割引を晋を通じ、継続的に相当回数被控訴人に依頼し被控訴人もこれに応じてその取引金融機関その他で風間から依頼された手形を割引き、銀行など正規の金融機関による割引の場合と同程度の、それ以外の一般金融業者などによる割引よりも低率の割引料を控除する外、当初依頼された割引の際の約束に従い、慣例的に特に言葉に出して約束されない場合でも風間との暗黙の約束として、割引の都度風間の被控訴人に対して負つている前記借金等債務の返済に充当する分として三、四万円程度の金額を割引の対価から差引き残額を風間に交付してきたこと、本件約束手形の場合も風間は控訴人から昭和三十五年八月二日割引を依頼されて振出交付を受け、晋にその割引を依頼して白地裏書の趣旨で第一裏書欄に押印して同月五日晋に交付し、晋は被控訴人名義で同月八日これを他で割引し裏書譲渡したこと、ところが晋は本件約束手形の割引の場合に限つて割引金を風間に対し全然交付しないで、その後風間から割引金の交付請求を受けるに及んで同人に対し、割引金全額を同人の被控訴人に対する前記債務の弁済として充当したとして割引金の交付を拒絶し、その後も遂に割引金は交付されないままであり、従つて風間も控訴人に対し割引金を交付していないことをそれぞれ認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。
被控訴人は本件手形が前記債務弁済のため被控訴人に裏書譲渡されたものである旨主張し、原審証人遠井の証言中には「本件約束手形はこれを割引いて債務弁済に充てるため交付を受けた」旨の供述部分があり右被控訴人主張に沿うかの如くであるけれども、同証人の証言中には別に「従来通り割引いて弁済に充てる」旨及び特に証人風間房雄との対質尋問における供述として「旧債に充当することは前々からやつていたので、本件手形交付の際特別にそのように言つたことはない」という趣旨の供述部分があつて前記証言部分も、本件約束手形裏書が従前の割引と異り割引金全額を債務弁済に当てる約束の下になされた趣旨であるか否かはきわめて不明確であり、被控訴人主張に沿う趣旨であるとすることは甚だ疑いを容れる余地が大きく、のみならず本件約束手形の割引金を全額債務の弁済に充当するものであるならば、特に「割引」を云々する必要もなく、単に債務弁済のため裏書譲渡するといえば足りることであり、他に従前の場合と異り本件手形に限り割引金全額を債務弁済に充当する約束がなされたことを裏付ける証拠もないから右証人遠井の証言を以て右被控訴人主張を認める資料とすることはできない。(同証人の証言中には、風間の旧債については本件約束手形裏書当時風間が弁済期限の利益を失つていたから全額をこれに充当することとした旨の供述部分があるけれども、他の供述部分及び前掲甲第四号証によれば前記債務の大部分を占める前記金四十六万円の借金債務は少くとも右裏書より一年近く前の昭和三十四年九月二十一日には全額について弁済期を経過して既に期限の利益を失つていたことが認められるから、このことを以て特に本件手形に限り割引金を交付しない理由となしうるものではない。)
四、そうすれば、右認定のように被控訴人は風間に対しその割引依頼の趣旨に反し割引金を交付しなかつたものであるから、裏書人たる風間から委任された割引の任務不履行により、同人に対し手形金の支払を求めることのできない立場にあり、従つて被控訴人は手形法所定の人的抗弁制限により保護さるべき固有の経済的利益を有しない者であるから、被控訴人が該手形を一旦他に裏書譲渡し後日これを受戻して所持人となつた本件の場合においても、その前者風間に対する振出人たる控訴人の抗弁事実についての善意悪意の如何を問わず、控訴人は被控訴人の前者たる風間に対し手形金の支払を拒みうる割引金不交付の抗弁を以て被控訴人に対抗することができるものというべきである。
のみならず、前掲証人風間房雄及び当審証人風間まさの各証言によれば、被控訴人は本件約束手形の割引を依頼されるに当り、訴外風間房雄から該手形交付の事前に電話で、又交付の際にも直接に、該手形が控訴人から割引を依頼されて振出されたものであることを告げられたことが認められるし(右認定に反する前記証人遠井の供述は前掲各証言に照し信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない)、前示のように被控訴人は風間に割引金を交付しなかつたものであるから、本件手形が何らの対価関係を伴わず、控訴人から風間に振出され、かつ風間から被控訴人に裏書譲渡されるものであることを知つて取得した悪意の所持人として、被控訴人は控訴人から風間に対する前記抗弁を以て対抗され、控訴人に対する手形上の請求権を有しないものというべきである。
なお被控訴人が風間から手形の割引を依頼され現に割引をしたときは、その割引金のうちから三、四万円位の金額を風間の債務の弁済充当のため差引くことのできる約束であつたことは前記認定のとおりであるけれども、その差引くことのできる金額が手形金額に比しきわめて少額であり、又前記認定のように別に控除される割引料が正規の金融機関以外の比較的容易に割引を得られる金融業者の割引料より低率であつたことを考慮すれば、右債務充当分の差引は多分に被控訴人の割引に対する報酬としての性格を具有するものであつて、現実に割引の任務を遂行することを前提とし、これを遂行した場合にのみ被控訴人に許されるものであるというべく、被控訴人が委任に基づき先ず手形を他で割引いてその対価を受領した場合であつても、これを更に風間に交付しない限りは、法律上の評価としては当初より全然割引の任務を実行しなかつた場合と同一視すべきであり、右旧債充当分といえども、その部分に限り任務を遂行したともいいえないから、手形金中この部分に相当する金額のみの支払を請求しうるものでもない。従つて控訴人は被控訴人に対し本件約束手形金全額について支払を拒みうるものということができる。
よつて、控訴人は被控訴人に対し本件約束手形金を支払うべき義務を負うものではないから、右義務あることを前提とする被控訴人の本訴請求は、その余の控訴人抗弁の判断に立入るまでもなく、全部失当であり、本訴請求を正当としてこれを認容した原判決は不当である。